創世記 14:18, 20. その時、サレムの王メルキゼデクは……きた。……アブラムは彼にすべての物の____を贈った
答え: ____________________
注: 収入の十分の一のことを「什一」といいます。ヤコブの祖父であるアブラハムは、何年も前に神の祭司であるメルキゼデクに什一を贈り、模範を示しました。
レビ記 27:30. 地の____は地の産物であれ、木の実であれ、すべて 主のものであって、主に聖なる物である。
注: 厳密に言えば、わたしたちが持っているものは100%神のものです。詩篇 24:1 地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。しかし、神はわたしたちに、すべてが神のものであることを、什一、つまり収入の10%を返すことによって認めるよう、求めておられます。
民数記 18:21, 24. わたしは__の子孫にはイスラエルにおいて、すべて十分の一 を__を嗣業として与え、その働き、すなわち、会見の幕屋の働きに報いる。……わたしはイスラエルの人々が供え物として主にささげる十分の一を、レビびとに嗣業として与えた。 コリント人への第一の手紙 9:13,14 あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。 それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。
注: 旧約聖書の中で神は、聖職者であるレビ人を支えるために什一を用いよ、と命じておられます。また、コリント第一 9:13では、古代の祭司が神殿の什一から給料をもらっていたように、今日の福音伝道者も教会にささげられた什一から給料をもらうべきだ、とおっしゃっています。
創世記 28:20, 22. ヤコブは誓いを立てて言った、……「そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたに_____」。
注: い いえ、違います。モーセの律法が与えられるずっと前に、アブラハムもヤコブも収入の十分の一を神にささげていました。これはシナイ山より前の出来事だったので、十字架で無効になった礼典律(儀式のための律法)ではないことがわかります。什一の律法は伝道を支えるための神のご計画で、今もなお有効です。
マタイによる福音書 23:23. 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている____________が、これも見のがしてはならない。
注: いいえ、そうではありません。イエスは、欲深いファリサイ派の人々が什一のための葉や小さな種を枡で計って神殿へ収めるのではなく、1枚ずつ1粒ずつ数えて収めているのをご覧になったのです。そこでイエスは、彼らが什一にはそれほど正確なのに、「正義、慈悲、誠実」はおろそかにしていることを非難されたのでした。イエスは什一を非難されたのではなく、クリスチャンのもっとも重要な他の原則をないがしろにしていることを非難されたのです。それゆえ、「それもしなければならないが、これも見のがしてはならない」と言っておられるのです。
マラキ書 3:10. わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを__、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。
注: 神はこう言っておられます。「もし疑わしいと思うのなら、試しに什一をささげてみなさい。わたしを試してみて、あなたが受け取ることのできないほど大きな祝福をわたしが返さないかどうか、見てごらんなさい」と。什一を収めている何万人もの人たちが、それは本当ですよ、とあなたに語ることでしょう。神は尽きることなく、あなたに与えることがおできになるのです!
ネヘミヤ書 13:12. そこでユダの人々は皆、穀物、ぶどう酒、油の十分の一を_に携えてきた。
注: 倉とは神の教会の宝物庫(金庫)のことです。(聖書では、「宝物庫」と「倉」を同一視しています。)マラキ 3:10で神は「倉」を「わたしの家」、つまり神殿あるいは教会と呼んでおられます。そのほかの聖句でも神殿や神殿の 宝物庫を指しています(歴代志上 9:26、歴代志下 31:11,12 ネヘミヤ記 10:37,38)。このように、倉が神の教会の宝物庫(金庫)であることは明らかです。
コロサイ人への手紙 3:23. 何をするにも、人に対してではなく、_に対してするように、心から働きなさい。 ヘブル人への手紙 7:8 その上、一方では死ぬべき人間が、十分の一を受けているが、他方では「彼は生きている者」とあかしされた人[イエス]が、それを受けている。
注: わ たしたちは什一を人にではなく、神にお返ししているということを常に覚えておかなければなりません。什一は神のものです。什一を神におささげしたなら、それがどのように使われるかを心配する必要はありません。神はご自分のお金はもちろんのこと、そのお金をいい加減に使おうとする人をも、きちんと扱うことがおできになるからです。
詩篇 96:8. そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。___を携えてその大庭にきたれ。 マラキ書 3:8 人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。
注: 主はわたしたちに、主に対する愛と主の恵みに対する感謝の気持ちを表すものとして、自発的な献げ物をするように求めておられます。
コリント人への第二の手紙 9:7. 各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら_で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。
注: 聖書は具体的な額を決めていません。個人個人が、神から与えてくださる印象に従い、自発的な献金の額を決めます。
創世記 3:3. ただ園の中央にある_の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました。
注: 神はアダムとエバに、園の中のあらゆる木の果実を食べてもよいが、1本の木――善悪の知識の木――の果実だけは食べてはならない、と言われました。食べるばかりか触れてもいけない、さもないと死んでしまうと、神はおっしゃったのです。神はその木の周囲に、電気を通じた柵を巡らせたりなさいませんでした。むしろ、その木を手の届くところに置かれたのです。やがて、アダムとエバはその木に手を伸ばしてしまいました。神に信頼を置かなかったからです。今日でも、神は同じテストをわたしたちに与えておられます。「十分の一以外すべてあなたに入るお金は自由にしてよろしい。ただし、十分の一はわたしのものである。取ってはならない」と言われます。しかし、わたしたちが使いたいと望むなら、そのお金は手の届くところにあるのです。もし使ってしまえば、アダムとエバの罪を繰り返すことになります。神はこの特別な木の果実を必要となさっていたのではありません。これは2人の忠誠心を試すためのものでした。同じように、神は什一を必要となさっているのではあり ません。神はすべてのものを所有しておられるのですから! これは、わたしたちの愛と忠誠心と信頼のテストなのです。
出エジプト記 20:15. あなたは____ならない。 マラキ書 3:8 人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた「どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか」と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。
注: 知っていながら什一と献金に不忠実な者は盗む者であると、神は言われます。人から盗むのも十分に悪いことですが、神から盗むなど、もってのほかです。その上、失われた人への伝道のために神が指定しておられる資金を、さもしくも盗むなどというのは、信じがたいことです。
マラキ書 3:9. あなたがたは、のろいをもって、_____。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。 コリント第一 6:10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。 (新共同訳)泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
注: 什一と献金に忠実でない者はのろわれ、その人が変わらなければ、泥棒として神の国から締め出されてしまいます。
ルカによる福音書 12:34. あなたがたの_のある所には、心もあるからである。
注: わたしたちの心は投資したものの後を追うので、貪欲は死につながります。もし、お金をもっと増やすことに集中していると、心は欲深く、けちで、高慢になります。しかし、もし、神のみ業を前進させることに集中すると、心は思いやり深く、愛情深く、寛大で謙遜になります。心は紛れもなく自分の富を追います。ユダがイエスを銀貨30枚で裏切ってしまったのは、彼の貪欲と金銭欲からであったことを、わたしたちは忘れてはなりません(マタイ 26:14-16)。
ヘブル人への手紙 3:11. そこで、わたしは___、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った。
注: おそらくイエスは、子供が親の財布からお金を盗んだときの親の気持ちになられるでしょう。お金がなくなるのは大したことではありません。親を深く落胆させるのは、むしろ子供が不正直で、愛と信頼に欠けていることなのです。わたしたちの中のだれ1人として、救い主を悲しませたいと思っている人はいないでしょう。
コリント人への第二の手紙 8:5. わたしたちの希望どおりにしたばかりか、____をまず、神のみこころにしたがって、主にささげ……たのである。 箴言 3:9 あなたの財産と、すべての産物の初なりをもって主をあがめよ。 箴言 11:24,25 施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。 使徒行伝 20:35 受けるよりは与える方が、さいわいである。 ルカによる福音書 12:21 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである ルカによる福音書 6:38 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。 コリント人への第一の手紙 16:2 あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき……なさい。 申命記 16:17 あなたの神、主が賜わる祝福にしたがい、おのおの力に応じて、ささげ物をしなければならない。
注: 神が祝福される収入の十分の九は、祝福のない十分の十よりももっと長続きします。ついでに言うと、神が天の窓をお開きになるとき、その祝福はいつも金銭的なものとは限りません。 それは、健康、安心感、答えられた祈り、ご加護、仲のよい家族、体力、分別のある判断力、イエスと共に歩めること、伝道に成功すること、ボロ車がいつまでも走り続けることなど……いろいろです。もし本当にイエスを愛するなら、イエスの働きのための犠牲は苦痛ではないでしょう。それどころか、大きな喜びと満足感をもって行使できる栄光の特権、祝福なのです。
ヨハネによる福音書 1:51. 「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の_の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。
注: ヤコブは天と地の間にかかっている階段を見ましたが、それは人の子の象徴でした。マラキ 3:10で神は、もし十分の一の献げ物を倉に入れるなら、わたしたちのために天の窓を開き、あふれるほど祝福を注ごう、と言っておられます。イエスがその祝福なのです。
箴言 23:26. わが子よ、あなたの_をわたしに与え、あなたの目をわたしの道に注げ。 マルコによる福音書 7:6 「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」
注: イエスがわたしたちの心をお持ちになれば、わたしたちの他のあらゆるものも持っておられるのです。