マタイによる福音書 3:1, 5, 6. そのころ、バプテスマの___が現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて……エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。
答え: ____________________
注: 福音書の物語は、洗礼に始まり、洗礼に終わっています。明らかに、これはイエスにとって大事な教えなのです(マタイ 28:18,19)。
使徒行伝 22:16. そこで今、なんのためらうことがあろうか。すぐ立って、み名をとなえて_____を受け、あなたの罪を洗い落しなさい。
注: 聖書のバプテスマの儀式は、人生の罪からの洗い清めと、新しい命を象徴しています。
エペソ人への手紙 4:5. 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは__。
注: 今日、少なくても15種類の儀式がバプテスマと呼ばれていますが、聖書によれば、真のバプテスマは1つしかありません。
コロサイ人への手紙 2:12. あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に___、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。
注: ギリシア語の「バプティゾー」という言葉は、「水中に沈める」「投げ込む」「浸水する」という意味です。人は水中に完全に沈められなければ、つまり水中に葬られなければ、バプテスマを受けたことにはなりません。聖書では、この「バプティゾー」という言葉が聖なる儀式であるバプテスマに用いられています。ギリシヤ語の「振り掛ける」とか「注ぐ」とかいう言葉は、まったく使われていません。
マルコによる福音書 1:9, 10. そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の_から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。
注: ナアマンがらい病から洗い清められたのと同じ川で、ヨハネはイエスに、沈めのバプテスマを授けました。彼らは(川の岸でなく)水の中に入り、イエスは水の中から上がられたことに注目してください。「ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである」(ヨハネ 3:23)。クリスチャンはイエスの模範に従うべきです(ペテロ第一 2:21)。そのイエスは、「すべての正しいことを成就する」(マタイ 3:15)ために、沈めのバプテスマを受けられました。
使徒行伝 8:38, 39. ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。ふたりが水から___と、主の霊がピリポをさらって行った。
ローマ人への手紙 6:4. すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中から________ように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
注: バプテスマは、キリストの死、埋葬、そして復活を象徴しています。まず罪に死に、次に罪深い古い人生を埋葬し、そして最後に水の中から復活して新しい命に入るのです。沈めのバプテスマは、この象徴にぴったり当てはまります。罪の人生が終わり、仰向けに水の中に入って全身が浸かる、つまり埋葬されると、ほんの一瞬の間息が止まります。そして、水の中から出て、復活を象徴する新しい人生を生きるために、赤ちゃんのように初めての息を吸い込むのです。他のバプテスマの形式は、このような聖書の象徴に合いません。ある人たちは、復活を重んじるために日曜日を聖としていると言いますが、そのような習慣は聖書の中にまったく記されていません。
マルコによる福音書 16:16. 信じてバプテスマを受ける者は____。しかし、不信仰の者は罪に定められる。 ヨハネによる福音書 3:5 だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
注: 聖書はバプテスマを欠かせないものとして、はっきり義務づけています。しかし、十字架の強盗のように、バプテスマを受けられない場合、イエスはご自分のバプテスマで代用してくださるのです(マタイ 3:15)。
ガラテヤ人への手紙 3:27. キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを__のである。
注: バプテスマは結婚の儀式のようなものです。聖書は、「あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主」(イザヤ 54:5)と言っています。女性が結婚して夫の名前を名乗るように、クリスチャンもキリストの名前を名乗るのです。いずれの儀式も意義深いものとなるためには、愛と約束に基づかなければなりません。結婚式が結婚生活に欠かせないように、バプテスマはクリスチャン生活に欠かせません。
マタイによる福音書 28:19. それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らに_____を施し(なさい)。
注: あの五旬祭の日、ペテロは罪を悔いている人々に、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」(使徒行伝 2:38)と語りました。あのとき彼は、この命令に従っていたのです。
使徒行伝 2:38. すると、ペテロが答えた、「_______。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」 A. イエスの教えを理解すること(マタイ 28:19,20)。 B. イエスの教えをすべて信じること(マルコ 16:16)。 C. 過去の罪を悔い改めること(使徒行伝 2:38)。 D. 真心から信じること(使徒行伝 8:37)。 E. 罪から離れるように努力すること(ルカ 3:7,8;ローマ 6:5,6)。 F. キリストを個人の救い主と認め、生まれ変わりを経験すること(コリント第二:17;ヨハネ 3:3,5)。
注: 幼児はこのような段階を踏むことができないので、福音を理解できる年齢になる前にバプテスマを授けることは、明らかに聖書的でありません。
マルコによる福音書 7:8. あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の___を固執している。
注: 聖書の時代と、十字架の後の数世紀間は、沈めのバプテスマだけが唯一のバプテスマの形式でした。ところが、心得違いの人たちが、自分の都合の良いように別の形式を用い始めたのです。このようにして、神の聖なるバプテスマの儀式はゆがめられ、その象徴の豊かな意味は、あいまいになってしまいました。
マタイによる福音書 15:9. 人間のいましめを教として教え、___にわたしを拝んでいる。 ガラテヤ人への手紙 1:8 しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。
使徒行伝 2:38. すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、_____を受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
注: 置き換わっていません。ペテロが説教しているとき、話を聞いていたすべての人に聖霊は降りましたが、彼らの多くはまだバプテスマを受けていませんでした(使徒行伝 10:44-48)。しかし、すでに聖霊によるバプテスマを受けたにもかかわらず、彼らは水によるバプテスマも受けるべきだと、ペテロは主張しています。
使徒行伝 19:2-5. 「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。 「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。 そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。人々はこれを___、主イエスの名によるバプテスマを受けた。
注: ある日、パウロがエペソで説教をしていたとき、洗礼者ヨハネによってバプテスマを受けたものの、聖霊の存在を知らない12人の人たちと出会いました。この本質的で新しい光を授かるや否や、彼らは再度バプテスマを受けました。このように、もしクリスチャンの経験から完全に離れてしまった人は、主のもとに戻ったとき、再度バプテスマを受けるべきです。聖書の形式でバプテスマを受けなかった人に関しても、再受洗は適切なことです。
使徒行伝 2:41. そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に____ものが三千人ほどあった。 使徒行伝 2:47 神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。 コロサイ人への手紙 3:15 あなたがたが召されて一体となった。 コロサイ人への手紙 1:18 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。 コリント人への第一の手紙 12:13 わたしたちは皆……一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け……た。
注: これらの聖句にあいまいなところはありません。すべて神の民は一つの体、すなわち教会に召され、バプテスマによってそこに加わります。赤ちゃんは生まれた後、養育、保護、成長のために家族を必要とします。それと同じことです。
ルカによる福音書 7:30. しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する_のみこころ無にした。
マルコによる福音書 1:9, 11. そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。……すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に___者である」。
注: 神は、ご自分の子どもたちが罪を悔い改めてバプテスマを受けるとき、お喜びになります。
Supplemental Study
バプテスマのお手本イエスは罪を犯されたことがなかったので(ペテロ第一 2:22)、バプテスマを受けられたのは、罪から清められるためではありませんでした。ですから、イエスがヨルダン川に来て、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けようとされたとき、ヨハネはまごついたのです。「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」(マタイ 3:14)と、ヨハネは言っています。では、なぜイエスはバプテスマを受けられたのでしょうか。おもに3つの理由があります。第一は、バプテスマを受けることができない人たちの代わりに受けられたということです。刑務所や病院で主を受け入れた人たちは、バプテスマを受ける機会がないことがあります。イエスはご自分のバプテスマをその人たちのバプテスマの代わりとされるのです。十字架の強盗がその例です(ルカ 23:43)。第二に、イエスはわたしたちが見習うように、お手本としてバプテスマをお受けになったのです(ペテロ第一 2:21)。そして第三に、イエスのバプテスマを研究することで、信仰とは何であるかを学ぶためです。このことを説明するために、次の聖句を一語一語見ながら、バプテスマにどんなことを期待できるか、考えてみましょう。「 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。 また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」(マタイ 3:16,17)。「天が開け」 = 神へ通じる道がわたしたちに開かれる。「ごらんになった」 = わたしたちの霊の目が開かれ、新しい理解と認識が与えられる。「神の御霊」 = 神の導きを認識する。「はとのように……下ってくる」 = 平安が心の中に徐々に入ってくる。「天から声があって」 = 静かにささやく声が聞こえるようになる。「わたしの愛する子」 = わたしたちは王家に養子、養女として受け入れられ、異なる国の市民となる。「わたしの心にかなう」 = 神は私たちを完全に赦し、受け入れてくださる。