ヨハネによる福音書 1:29. その翌日、ヨハネは___が自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
答え: ____________________
ローマ人への手紙 3:23. すなわち、___の人は罪を犯し。 ローマ人への手紙 6:23 罪の支払う報酬は死である。。 ヘブル人への手紙 9:22 血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。 コリント人への第一の手紙 15:3 すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと。 ペテロの第一の手紙 3:18 キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。
注: 聖書には、どうやって罪がこの世に入り込み、どうやって取り除かれるかが記されています。それゆえ、聖書は貴重なのです。神は醜く有害な罪を容赦しません。罪の支払う報酬は死です。そして悪いことに、アダムとエバが罪を犯したとき、この死の病は全人類に移ってしまいました。神の律法とその律法を犯したことへの罰は変わることがないので、すべての人は破滅の運命にあります。しかし神は、その被造物と別れることに耐えられませんでした。そこで信じがたい愛の行動として、ご自分の息子をこの世に送り、あなたや私の代わりに死なせることをお選びになったのです。わたしたちの罪とその罰は主の上に置かれ、わたしたちは自由の身とされたのです。
ヨハネの黙示録 14:6. すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の__をたずさえてきて……。
注: 神の救いの計画は「福音」、つまり「良い知らせ」と呼ばれています。そして、それは人類にとってもっともすばらしい知らせなのです。イエスがわたしたちの死刑を引き受けてくださり、わたしたちの罪は取り除かれたのです。
ヨハネによる福音書 3:16. 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を_______。
注: この世で一番強い絆は、親が子供を思う愛です。ご自分の息子であるイエスが、わたしたちの代わりに苦しんで死ぬことをお許しになったとき、父なる神はどれだけ熱烈にわたしたち1人ひとりを愛されておられるかを、もっとも力強い手段で示されたのでした。
使徒行伝 16:31. 「主イエスを_____。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。 ヨハネによる福音書 1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
注: イエスの救いは賜物です(ローマ 6:23)。それが真実であると信じること、信仰によってその賜物を受け取ることが、わたしたちのなすべき部分です。
使徒行伝 3:19. だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、_____て本心に立ちかえりなさい。 ヨハネの第一の手紙 1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
注: 告白は口頭での悔い改めです。真の悔い改めには、罪を嘆くことと罪を捨てることが含まれます(箴言 28:13)。
ヨハネによる福音書 3:7. あなたがたは新しく__なければならない。
注: この輝かしい経験は、その時点で過去が消し去られるので、新生と呼ばれています。そして新生児と同じように、新しい人生が始まります。それは、少しも罪の汚点が記録されていない新しい人生を始めるというすばらしい経験です。
ヨハネによる福音書 14:17. それは真理の__である。……あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
注: イエス御自身が、聖霊を通して、クリスチャンの心のうちに宿られます。
ピリピ人への手紙 2:13. あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ_______のは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
注: わたしは神の御旨を行いたくなり、神はそうする力を与えてくださいます。
ピリピ人への手紙 1:6. あなたがたのうちに良いわざを__られたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。
注: イエスがその偉大な力によって成し遂げてくださると約束してくださったので、わたしは確信できます。救いはわたしの力によるのではなく、主の力によるのです。
イザヤ書 53:6. われわれはみな……おのおの自分の_に向かって行った。 ペテロの第二の手紙 3:2 あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである。
注: クリスチャンはその生活において、イエスを救い主としては受け入れても、人生の主、または「統治者」として受け入れないために、しばしば失敗します。わたしたちの多くは、自分の好きなようにしたいと思い、自分勝手な人生を送りたがります。イエスを主として受け入れるとき、わたしたちは人生を主に向かって送るようになります。わたしたちは人生という車のハンドルから手を放し、主に方角を定めていただくのです。(Supplemental Studyの「一度救われれば、ずっと安全なのでしょうか?」参照)
テトスヘの手紙 1:2. 偽りのない神が永遠の昔に__された永遠のいのちの望みに基くのである。 マタイによる福音書 7:7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
注: わたしたちが求めれば、イエスがわたしたちを受け入れてくださることを、わたしたちは知っています。イエスは嘘をおっしゃいません。イエスはわたしたちを受け入れると約束なさったのですから、必ずそうしてくださいます。それは、わたしたちの気分的な変化によるのではなく、イエスが約束してくださったことによるのです。
ヨハネによる福音書 13:35. 互に__合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。 コリント人への第二の手紙 5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。 ヨハネの第一の手紙 3:22 わたしたちが神の戒めを守り、みこころにかなうことを、行っているからである。 ローマ人への手紙 12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。 使徒行伝 1:8 あなたがたは……わたしの証人となるであろう。 エペソ人への手紙 6:18 どんな時でも御霊によって祈り……なさい。
ピリピ人への手紙 4:13. わたしを強くして下さるかたによって、__でもすることができる。 ピリピ人への手紙 4:19 わたしたちの神は……あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。 マルコによる福音書 10:27 神はなんでもできるからである ヨハネ 15:11 あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。 ヨハネによる福音書 10:10 わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。 ヘブル人への手紙 13:5 「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない。 ヘブル人への手紙 13:6 わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか。 ヨハネによる福音書 14:27 わたしの平安をあなたがたに与える。
注: 神はご自分の民に、8つの貴重な約束をなさっておられます。・イエスを通してわたしたちは何でもできる。・すべて必要なものは与えられる。・不可能なことはなくなる。・喜びが満ちあふれる。・もっと充実した生活が送れる。・神はわたしたちから離れたり、わたしたちを置き去りにしたりなさらない。・人がわたしたちに対してしようとすることを恐れる必要はない。・主が完全な平和を与えてくださる。神を褒め称えよ! これ以上にすばらしいことがあるでしょうか?
Supplemental Study
一度救われれば、ずっと安全なのでしょうか?人は一度キリストを救い主と受け入れたにもかかわらず、滅びることがあるのでしょうか?神のみ言葉にその答えを見いだせます。聖書にはこう書かれています。「 また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互に努め、……もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。」(ヘブル 10:23,24,26)。聖書のどこにも、クリスチャンになってしまえばもう義務を果たさなくても良いなどと、教えられていません。神のみ言葉は明白です。「主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。ことわざに、『犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く』とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。」(ペトロ第二 2:20-22)。クリスチャンの信仰はただ一度の決心以上のものです。イエスは、救いはイエスにつながり続けることに基づくと言われました(ヨハネ 15:4)。使徒パウロは、「わたしは日々死んでいるのである」(コリント第一 15:31)と言いました。これは、パウロが自分自身を日々否定し、イエスに従うことを選んでいるという意味です。主もこうおっしゃっています。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ 9:23)。聖書は、真理から離れていっても救われるなどと、教えていません。エゼキエル書 18:24には、「しかし義人がもしその義を離れて悪を行い、悪人のなすもろもろの憎むべき事を行うならば、生きるであろうか。彼が行ったもろもろの正しい事は覚えられない。彼はその犯したとがと、その犯した罪とのために死ぬ」と書かれています。パウロも、「 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(コリント第一 10:12)と念を押しています。ある人たちは、「実行」なしに「有言」だけで構わない、と考えています。イエスは次のようにおっしゃいました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ 7:21-23)。パウロは真のクリスチャンのたゆまぬ努力を次のように描いています。「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。……すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」(コリント第一 9:24,25,27)。一度救われれば破滅することはないと考えるのは、神がわたしたちにとって一番大切な自由――選択の自由を取り去られると考えるのと同じです。その一方で神は、ご自分がわたしたちの中に始められた業を成し遂げられる、という確信をわたしたちに持ってほしい、と望んでおられます。「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」(ピリピ 1:6)。もしわたしたちが主に従い続けるならば、主はわたしたちをずっと導き、主におゆだねしたわたしたちの手を離されることはない、と確信できます。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ 24:13)。